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  AUTOBIOGRAPHY こんどうさんてどんなひと?

※ このコーナーは、「どんな人が塾長さんなのかしら?」と興味を持たれるお母様たちが多いのでは、と思い、自分史的な感じで書いたものです。
ところが、いざふたを開けてみると私の取り巻き連中の友人、知人からは「長すぎて読む気がしない」、「至って自己満足的な代物」、 「相当マニアックな文章」、「いっそのこと削除したほうがいい」などの酷評が相次ぎ正直へこんでおります。 みんな、おもしろおかしく読んでくれると思ったのに、思うようにはいきませんね。因みに、絶賛してくれたのは相変わらず親馬鹿な老父くらいのもの・・でした。
ということで、興味を持たれた方だけお読み下さい。指摘を受けて「至って自己満足的な代物&蛇足」であることを思い知らされた気がします。 でも、やっぱり削除するのは忍びない。



[幼年期]

家族は、両親と約5才離れた兄と私の4人家族。兄は、いつもニコニコしていて如才なく、取り入るのがうまく、親戚の叔父、叔母にもかわいがられた。しかも、運動神経抜群で、成績もいい。かくいう私は、無愛想で人見知り。苦手な叔父がやって来るに至っては、奥に引っ込んで出てこない始末・・・。幼い頃の私は、兄を意識するにつれその度合いを強くしていったような気がする。兄は私にとって「目の上のたんこぶ」であり、ある意味「羨望の的」でもあった。
俗に言う`お母さん子´&内弁慶&泣き虫(それにしてもウソ泣きがうまかったな。あのままゆけば役者を志せたよ)。幼稚園への朝の「送り」はおふくろも大変だったようだ。読書好きの家族の中で、本には自然に親しむ。小2の頃、よくいじめられていた近所のガキ大将(坂本君、元気?)とのけんかに勝ってひと皮むける。
もっとも、けんかと言ってもただの取っ組みあい。それに、弱いものいじめは大嫌い。兄弟げんかも含めて、僕にとっては一種のコミュニケーション手段だった。いわば子供の特権だ。おとなのような本音と建前の使い分け、腹の探り合いなどじゃなく、お互いの違いをぶつけ合って、折り合っていくような感じ。実に分かりやすかった。実際、子供の頃のけんかは、こころが成長する上で大きな意味を持つようだ。けんかを通じて、解決策や妥協点を見いだしてゆく。それ相応の社会性や協調性を体得できる、そんな気がする。「人間はお互い違っていて当然。話し合って解り合える」という思いは今もある。この頃、グループ・サウンズ・ブームに火がついて、気の合う級友たちとテレビを囲んで盛り上がる。



[小学生]

メンコ、ビー玉、野球、アルセーヌ・ルパン(小説)、ポップスに夢中。ときに野口英世や啄木などの伝記に涙し、ときに十五少年漂流記にわくわくハラハラ&(晴れ)ときどきけんかも。小6で初めて自分で買ったレコード(クリフ・リチャードの`しあわせの朝´)にカタカナでルビをふって歌うことを楽しむ。中学での英語の授業を待ちわびる。なにかの学習教材の付録で、世界の国々の国旗、国名、首都、特産物、産業などをカラー写真入りで紹介しているカード式の教材があった。まだ見ぬ世界への憧れだったのか、世界地図と首っぴきでくり返し見ているうちに楽しく学べたのを覚えている。
高学年では少年野球を通じてスポーツの厳しさを体感!因みに、少年野球の監督さんと知己だった父が練習や試合にちょくちょく顔を見せた。子煩悩が昂じた過干渉の始まり・・・・。もっとも、まだこの頃の僕にはその意識はほとんどなかったような気がするが・・・。
この頃塾通いしていた文武両道だった兄を見て、塾というのは頭の良い人が行く所だと漠然と思っていた。まだまだ塾というのが身近ではない時代。My Good Old Days!



[中学]

中1 野球部に入りそびれて、なぜか柔道部に入部。海軍仕込みのおやじのスパルタで、よく庭の柿の木に自転車のチューブを巻きつけて、`打ち込み´の練習をさせられたものだ。因みに、おやじは勉強のことはさておき、ことスポーツとなると、上に`狂´が付くくらいの熱心さで干渉してきた(父には申し訳ないが、正直父に干渉されることで、私は柔道を楽しむということを半減させられたように思う。親の過度な干渉や強制は子供の自主性や能動性、やる気をそいでしまうと思う。これは当然勉強にもあてはまる。父の愛情も感じていたし、畏敬の念もあったので、気持ちは複雑だったが、もう少し楽しく柔道に励みたかったというのが本音である)。ズバリ変った人である。但し、柔道などで培った「ここ一番がんばろう」という時のあの体育会系のノリというのは今も活きているような気がする。

この頃「親友」というものに憧れつつも、人とのつき合いの難しさに悩み始める。周りを笑わせることに徹しようとしていた表向きの自分とのギャップに苛まれる。その点、小学校時代は気楽だった。余計なことをあれこれ考えずにつき合っていた気がする。気軽にけんかもできたし・・・。
家には、父親の兄への期待がそれとなく漂っていた。自分の存在感は揺らいでいた。自信もなかった。「いい子でないと嫌われる」、そんな思いに駆られて、いつしか自分を主張せず周りに気に入られるよう振舞っていくようになった自分を感じていた。
中2 おりしもフォークブーム。友達の影響でギターを習いだす。 「拓郎の弟子になりたい」とノーテンキに思ったことも。勉強では一番だらけた時期。数学の成績は5、4、3とカウントダウン。


中3 持ち上げ上手の担任のK先生に`よいしょ´して頂いたおかげで、ずいぶんと成績がアップ(すっかり木にのぼらせていただいた)。教科書や参考書には載っていないような数学の解法を見つけて悦に入っていたことも。
好きなポップスの英訳も試みた。サイモン&ガーファンクルの曲だったと思うが、難しくて途中で投げ出したと思う。テレビでは、NHKの海外ドラマ「西部二人組」やステージ101を欠かさず視聴。前者は、「1800年代も末近く、アメリカは西部で大変悪名を馳せたハンニバル・ヘイズとキッド・カーリーと申します無法者がおりました」という名古屋章?の名調子で始まったのを覚えている。
因みにふたりの声は新克利と江守徹だった。後に、ダスティン・ホフマンの映画「卒業」にキッド・カーリー役のベン・マーフィーがちょい役で出ているのを目にして大喜びした。後者では、ヤング101のメンバーの中に、後にヒット曲を出した太田裕美や田中星児がいた。僕は専らヒロこと河内広明がお気に入り。C.C.Rの“Someday Never Comes”やアメリカの“名前のない馬”などをカバーしたり、歌に踊りにと、とにかく格好よかった。後に、惣領泰則とジムロック・シンガーズにメンバー参加。City Lights by the Moonlightや水芭蕉など、私にとっての名曲を聞かせてくれている。待望の初デートも体験。



[高校]

高校も柔道部へ。関東大会へは個人戦で2度出場。2度とも1回戦負け。背負い投げ、体落としによる華麗な「一本勝ち」柔道にこだわり、関節技、絞め技を邪道と嫌い、また「ぎょうざ耳」になる寝技も極力避けての『偏食・・柔道』、ここに極まれり。かくして、個人戦で全国ベスト16に入った、父の末弟(おやじと20歳離れた叔父)の記録を上回るという父のもくろみはいともたやすく崩れ去る。当時、東海大相模には、あの山下泰裕さんがいた。威風堂々、舌を巻く強さだった(因みに、彼はこの程度のレベルの大会では団体戦にしか出なかった)。
一方、英語の勉強という名目で、アメリカの女の子との文通を楽しむ。すごく癖のある字体だったのを覚えている。Drawis Ann Irving (当時の兄貴の話では、ユダヤ系の名前だとのことだった) I'm wondering where you are. Fine ?
太宰治、ジェイムス・ディーン、荒井由実に傾倒。また、この頃兄の影響でジョルジュ・ムスタキ、フランソワーズ・アルディー、シャルル・アズナブール、ミッシェル・サルドゥーなどのシャンソンにはまる。
因みに、FM東京(現TOKYO−FM)の人気番組、細川俊之のナレーションで人気を博した、`WORLD OF ELEGANCE´(この番組のイントロの曲もすご〜く良かった。もう一度聞いてみたいな。)で聴いたダリダの`残されし恋には´にはいたく感動!その情感あふれる歌いぶりに、ひと目ぼれならぬひと聞きぼれした。少々趣を異にするが、フランス映画「冒険者たち」の挿入歌、アラン・ドロンが歌う『いとしのレティシア』も珠玉。レティシアは、後にシドニー・ポワチエと結婚したジョアンナ・シムカスが演じた役。彼女に囁くようになんとも甘い低音を聞かせてくれる。 ロバート・デ・ニーロ主演でトム・スコットのサックスをフィーチャーリングした、「タクシードライバーのテーマ」、同じく世界的ギタリスト、ジョン・ウィリアムスをフィーチャーリングした、「ディア・ハンターのテーマ曲・カバティーナ」と合わせて大好きな映画音楽のベスト3のひとつ。

                              At seventeen with my brother & cousins

また、兄と連れ立って遊びに行った静岡の従兄宅での高1の夏の思い出も・・。隣の県でもあり、よく彼が遊びに来てくれた。 ある夏の日、友人を伴って自転車でふいにやってきて驚かされたこともあった。サーフィン、スキー、テニス、車、ファッション、音楽などなど、 人懐こい笑顔の、遊び上手の彼にあの頃はちょっと憧れていた。
夏みかん畑の中にある彼の隠れ家的な離れで聞いたナンシー・シナトラ&リー・へーゼルウッドの‘サマーワイン’。 「これぞ、おとなの雰囲気」。兄と従兄の話についていこうと随分と背伸びしていたあの日の夜。ところが翌日は散々。従兄の尻を追いかけて、サーフィン中に溺れかける。 くわばら、くわばら。やっぱ海は怖い・・。背伸びしきれず蒼い夏・・。 兄の`おさがり´で、奥浩平の「青春の墓標」や高野悦子の「二十歳の原点」などを読む。
共に学生運動において挫折した二人。 連合赤軍の浅間山荘事件が重なる。主義主張を貫いて自分らしく生きることの難しさを思う。漫画(というより劇画)では、兄貴経由で読み出したバロン吉元の柔侠伝シリーズにはまる。 明治、大正、昭和を舞台とした親子4代の柔道家の生きざまを描いた作品。三池炭鉱闘争などの社会運動も絡めて、歴史に翻弄されつつ、それにあがない、 権力に立ち向かうロマンあふれる男たちが登場する。恋あり、笑いあり、涙あり。そんじょそこらの名作も顔負けの中身の濃さ。おかげで日本の近代史を楽しく知ることができた。
ズーズー弁の朝子や風吹ジュンがモデルとおぼしき茜ちゃんがかわいかったな〜。因みにやまを追われた炭鉱の人々は仕事を求めて都会へと向かう。 おりしも高度成長期の時代の寵児であった「金の卵」の若者たちにパイを奪われ、やがて山谷や釜ヶ崎へと流れてゆく。岡林信康の「山谷ブルース」、 「流れ者」、「手紙」などのメッセージソングも巷に流れていた。 受験勉強は、大学祝典序曲のイントロで始まる、 受験生定番の ラジオ講座 に加えて、`朝日新聞の天声人語を読んで、 要旨をまとめ、父に添削してもらう´という勉強法 も導入。
また、英語は機械的な丸暗記が性に合わず、英文の多読、 乱読によってボキャブラリーをふやしていく。歴史(日本史など)は、歴史の流れ、必然性を意識しながら、教科書をとにかく熟読。 ひとつひとつの出来事をつなげてゆき、背景を知った上で、歴史上の人物名や年号を覚えてゆくことによって比較的容易に頭に入れることができた。 丸暗記の勉強と比べると時間はかかるが、「急がば回れ」だ。もっとも、このレベルでは、「木を見て森を見ず」的な学習法はもはや通用しない。 英語や歴史に限らず、勉強というのは、地道にコツコツも必要だし、「どうすれば楽に、無駄なく、効率よく学習できるか」に頭を使い、 工夫することも必要 だと思う。
また、こういったことは、受け身の勉強でなく、独力の学習の中で初めて身につくような気もする。  勉強で思い出すことがある。「ながら勉強」だ。ウチではおやじの方針で 禁止されていた。ぼく自身それが正統だと思っていた。
ところがどっこい、女房の 家ではながら勉強が奨励されていたというのだ。目から鱗・・・。 女房は聖徳太子とはいかないまでも、同時並行でいろいろできる―もっとも、 女性は右脳と左脳を繋ぐ脳梁が発達している分それが得意という説もある―。 情けなや、私はそれが苦手。何かをしようというときには周りが静かでないと集中できない。 しばしばこれに悩まされてる。嗚呼!子供は親を選べない・・・。



[大学]

日本育英会の特別奨学生(4年間)、家庭教師やウエイターなどで、独立独歩を貫く。おやじからの解放&おふくろからの親離れ・・・。帰ろうと思えばいつでも帰れる距離なれど、かくしてひとり暮らしが始まる。その頃の心象風景は浜田省吾(当時は愛奴)の「恋の西武新宿線」に重なる。「二人の夏」と共に記憶に残る。どちらもマイナーの域を出ないが、僕には思い出深い。『九月の夕暮れ 人波流れる 街灯りともる 西早稲田通り』のサビで始まり、街の雑踏、ざわめき、路面電車の音が重なり合い、フェードアウトして終わる。ひとり暮らしの解放感、わくわく感、漠とした一抹の不安感・・・・。当初は所在なげに部屋を出て雑踏をさまよい歩いた。
自分探しの始まり・・・?やがてキャンパス・ライフにも慣れて英語関連の講義を中心に比較的熱心に出席する一方、マージャン、ディスコ、ビリヤード、飲み会などを通じて悪友との親交を深める日々がやってきた。とにかく、いっしょにいるのが楽しい。でも、正直流されてる。皆の輪の中でもふと孤独を感じるときもある。そう、本音はおそらくこんなだったのだろう。「周りにはうわっつらの会話が飛び交っている。『友だちごっこ』を演じている。『そんな話いくらしたってお互いのことが分かりあえるわけないだろう!?』・・・。」グループの中で相変わらず道化役として振舞う一方で、「なにか」を求めて、各メンバーと一対一で付き合う回数もふえていった。高田馬場のBIG BOX、ひとりの時には池袋の文芸座に足繁く通う。
余談だが、大学の悪友たちとは今も続いている。神奈川3人、東京3人、埼玉1人、茨城1人、群馬1人&福井1人。俺と同じ塾屋さん1名、残りは企業の中間管理職として悲喜交々の日々。BUT・・・、恒例の年末の飲み会にはオトウチャンたちはあの日に帰るのだ。昔話に花が咲く。みなが申し合わせたようにどっと笑う!みな笑いに飢えているかのよう・・・。同じ価値観を共有できる。ささやか、でも、それがだいじだと思う。
英語の学習と称して`A Streetcar Named Desire´や`Madame Chatterley´などを耽読、楽しく英語を学ぶ。音楽は、チョッパーベースの名手で、プロのスタジオ・ミュージシャンを目指し、「オリビアを聞きながら」でデビューした杏里(彼女の多くのアルバムの中では「BI・KI・NI」が珠玉。『Surf City』とマイナーだが『Affection』が泣ける)のアマチュア時代のバックバンドのベーシストを務めていた高校の友人、“おぼっちゃま君”こと、芝工大の亀井崇君(おい、おまえ、何処にいるんだぁ?東京にいることは噂で聞いたけど・・。連絡くれよっ!
みんな、おまえに会いたがってるっ!!)の影響を受けてフュージョンやジャズに親しむ。スパイロ・ジャイラ、アール・クルー、リー・リトナー、ラリー・カールトン、アル・ディ・メオラ、トム・スコット、デイヴィド・サンボーン、クルセイダーズ、デイヴ・グルージン、アル・ジャロウ、ブラサーズ・ジョンソン、渡辺貞夫、森園勝敏、スペース・サーカス、プリズム、今田勝、神崎オン・ザ・ロードなど、あれこれ聞いた。ポップスでは、伝説のグループ、シュガーベイブが解散して、山下達郎がサーカス・タウンというこじゃれたアルバムを出している(ラスト・ステップと夏の日がいい)。これに続いて、メンバーの大貫妙子もロマンティクというどこかフランスをイメージさせるしんみりとした曲調のアルバムを出している。
この頃、俳句・短歌・詩作を嗜むおやじを喜ばせてやろうと、少し背伸びして無頼庵人(ブライアント)などというアメリカかぶれな雅号を使って、俳句や短歌のまねごとを始める。この背景には、高校の頃、大学で同人誌を出して小説家の卵を気取っていた(失礼!)兄貴とおやじとの文学論に加わることができずにいた疎外感が働いていたのかもしれない。種田山頭火、尾崎放哉、西行のような世捨て人的な歌人に興味を抱き始めたのもこの頃。
なぜそんな人生を送るに至ったのか、彼らの心の軌跡を辿るべく本を読む。そう言えば、僕の二十歳の誕生日におやじが水上勉の「冥府の月」という本に、“ひとは儚し きずなは脆し 如何な愛にも 打算あり 理塵”という歌を添えて思いがけなくプレゼントしてくれたことがある。あの悲惨な戦争を経て、世の辛酸をなめ尽くしてきたおやじならではのシニカルな人生観だとは思うのだが、二十歳の門出を祝う息子に贈る歌としてはいささか刺激が強かったし、納得できない思いもあった。
因みに、理塵は、この頃おやじが使っていた雅号で、「宇宙や自然の営みに比べれば、人間の存在など水面に浮かぶ塵や芥のようなものだ」というような意味らしい。下記の歌はこの頃精一杯背伸びして創ったものである。自分では上出来と思ったのだが、ほめてもらった覚えがない・・。


・ぬばたまの 闇夜に遠く 浮かぶ灯は ほのぼのとして われをいざな

・冷えかかる 玻璃戸はりどにすがり 冬の蚊は ときにかすかに くちをふるわす

・うらうらと 波打ち際を 歩きおり つなをひく犬 ひき戻しつつ         無頼庵人


 ※玻璃戸とはガラス戸のことです。




[社会へ]

・軽口で 平静装う 会議前

・ブルマンで ブルーマンデー にがい朝

・退社時の 声は大きい 五時から男    無頼庵人


これは社内報の川柳のコーナーに載ったものだ。会社勤めにいまひとつ馴染めずにいる自分を感じつつ、専らサーフィン、スキー、テニス、バドミントンなどで発散。

  

ロシュでは、対外広報(取材・記者対応、記者会見、プレスリリース、アニュアル・レビュー、Roche Group News配信、Roche Group案内、会社案内、広告提供など)に所属。その傍ら、ロシュ・グループの`CORPORATE BROCHURE´−An International Commitment To Health−の日本語版や`Adverse Event Guidlines´の 日本語版、英語版の翻訳・作成、Roche  world wide ecology champaignなどを担当。On the job trainingの傍ら、通勤時の英会話リスニング、御茶ノ水のアテネ・フランセ、津田塾会、ネイティヴ講師の個人レッスンなどを通じて英語学習にいそしむ。
今思えば、好きな英語を活かせる比較的居心地の良い職場だったような気がするが、あの頃はおそらく自分探し的に別の青い鳥を探していたのだと思う。どっぷり漬かっているときには分からない。隣の芝生は青く見える。
平成元年、人生の一大転機が訪れる。春のオートバイ・ツーリングの折に交通事故に遭い、右脚に後遺症が残る。右脚の大腿骨の骨頭を粉砕骨折し、人工骨頭の置換手術を受ける。翌年、闘病中に支えてくれた女房と結婚(いまだ頭あがらず)。「禍福はあざなえる縄の如し」をしみじみ思う。退院後、右足の経過がよかったので、つい手を抜いて、リハビリのための通院を怠っていたところ、そのつけがやがて回ってきた。だが、逆にそれで腹がすわった。杖をついても5分と歩けないような情けない有様を目の当たりにし、一大決心。医者頼みにせず、水泳や水中歩行、関連本や理学療法士の先生方のアドバイスを参考に独自に改良した水中での体操を採りいれて、独力で約1時間半のリハビリを励行し始める。
ともあれ、日課となった`水泳を兼ねてのリハビリ´も、はや27年となる。今では、杖なしで歩けるまでに右脚の筋力を強化するに至った(塾生たちや親御さんには右足のことは話してないので、これを読んでびっくりしている人も多いだろう)。また、スポーツをずっと続けてきたおかげで、今でも高校、大学時の体型をほぼ維持できている。「継続は力なり」 を体感。ときに愛犬のはなにせかされて散歩に向かう日々だ。
Tomorrow’s gonna be a brighter day,I believe.



[追記]

その後、右脚の調子もよく、思いきって昨年サーフィンとスキーを再開しました。 自分でも信じられない思いでいっぱいです。リハビリに関しては、有森さん同様、 「自分で自分を褒めてあげたい」気持ちです。God blessed me. まだまだ若いもんには負けられませんっ!!
(平成23年10月22日記)

   最終更新日:2017/3/31
 
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